ログイン第3話 俺は運転手じゃねえ
男の眉も目も、すべてが横柄で傲岸な気配を漂わせていた。
魂を奪うような美しい瞳は、底知れぬほど深い。
「桐生家か? 乗れ」
美月は……?
彼女は目を細めて男を見た。
瑛士のせいで、彼の友人連中にはどうしても良い感情が持てなかった。
美貌は冷たく強ばっている。
「なんだ、瑛士に追いかけられて絡まれるほうがいいのか?」
たった一言なのに、まるでかぎ爪が引っかかるような言い方だった。
美月はしげしげと彼を見つめた。
後部ドアに手を伸ばそうとしたその瞬間、男の傲慢な声が間髪入れずに響いた。
「俺は運転手じゃねえ」
美月は……?
赤い唇をきゅっと引き結び、助手席のドアを開けて乗り込んだ。
シートベルトのバックルを押し込んだとたん、車は弾かれたように飛び出した。
そう、弾かれたように。
美月はこの速度を見て、乗ったことを後悔した。
今日は失恋した日であって、殉職するつもりはない。
幸い、曲がり角で車がゆっくりになった。
道中、二人はひと言も口をきかなかった。
やがて車が桐生家の別荘の前に停まった。
美月はシートベルトを外し、降りる前に運転席のほうをちらりと見た。
「ありがとう」
そう言って、そのままドアを押し開けて降りた。
神崎蓮(かんざき れん)の美しくも底知れぬ桃花の瞳は、その背中から離れなかった。彼女が屋敷の中に消えると、彼の口元はゆっくりと弧を描き始めた。
数分後、美月は使用人に案内されて、桐生家の居間へと通された。
桐生夫人(きりゅうふじん)は苛立った様子で、階段を下りてきた。
美月の姿を認めると、その顔は黒く曇った。
「橘さん、こんな夜更けに、わが桐生家に何の御用ですの?」
声は、普段の貴夫人としてのやさしげで寛大な気品を失い、歓迎せざる客へのとげとげしさが滲んでいた。
桐生夫人は、この未来の嫁が気に入らなかった。
第一に、美月は狐のような妖しい美貌で、息子の心を奪ってしまった。
第二に、美月は橘家という厄介者の連れ子にすぎなかった。
顔立ち以外は、家柄がまるで話にならなかった。
桐生家が求めるのは、釣り合いの取れた名家の令嬢だった。
息子が家と絶縁寸前まで追い込まれるほど夢中になる小娘などではない。
「桐生夫人、本日は正式にご連絡に参りました。私と息子さんの婚約は白紙に戻します。以後、お互いに婚嫁に関わらず、一切無関係で」
桐生夫人は呆気に取られた。美月のほうから婚約破棄? そんなことあり得るの?
苦労して桐生家に取り入ったというのに、破棄だなんて。
これはいったい何の芝居? また息子を手なずけるための駆け引きじゃないでしょうね?
「橘さん、やりすぎですよ。婚約破棄なんて脅しで片づく話じゃありません。瑛士はそれで騙せても、桐生家は違います。いい加減にしないと」
美月はその言葉が耳に入っていないかのように振る舞った。
彼女はスマホを取り出した。先ほど個室で隙を見て撮ったものだ。
「そういえば、息子さんのご乱行をぜひご覧いただきたくて。念のため申し添えますが、あなたの自慢の宝物息子、私からはお断りですので」
スマホの画面が、驕り高ぶる桐生夫人の眼前に突きつけられた。
桐生夫人はその映像を見て……みるみる顔色が真っ青になった。
「それを消しなさい」
「承知しました。今すぐ前向きな婚約破棄声明をSNSに投稿していただければ、こちらも削除します」
こんなものを消さずに置いて、自分の目をさらに汚すつもりか?
スマホすら穢れてしまった。
桐生夫人は怒り狂い、目の前のふてぶてしい女を引き裂いてやりたいほどだった。
橘家の連れ子ごときが、よくもそんな図々しい真似を。
婚約破棄をご所望だと?
今後この女が土下座してきても、桐生家の敷居は絶対に跨がせない。
歯ぎしりしながら言った。
「よろしい。すぐに投稿します」
彼女は手早く自分のスマホを取り出すと、個人のSNSアカウントで次のように打ち込んだ。
『桐生家と橘家の婚約は、円満に解消いたしました。互いに良き道を歩まれますよう。嫁娶一切に関わらず』
「投稿しました。さあ、消していただきます」
抑えきれない怒りには命令が込められていた。
第160話 社交上手な蓮様美月は、叔父をここまで楽しませている蓮を見て……彼がこんなにも話上手だとは、今まで一度も知らなかった。この男の社交力は、本当に驚くべきものだ。もう三十分近く話し込んでいるというのに、二人はいまだに楽しそうに話し続けている。彼は以前から、こんなにも人付き合いが得意で、話好きだったのだろうか?ちょうどその時、蓮の視線がこちらに向いた。彼は立ち上がると、美月のもとへ歩み寄ってきた。「さっきおじさんが、今からうちに来いって言ってたぞ。昼飯は向こうで食べるらしい」正人は美月を見て、笑いながら言った。「美月、行こう! おばさんが家で待ってるよ。先に電話して買い物を頼んでおいたから、今頃は家で料理を作ってるはずだ!」美月は頷いた。「はい!」一行は外へ向かって歩き出した。蓮が美月の隣に並び、尋ねた。「車で行くか? それとも歩く?」「車で行きましょう!ここからおじさんの家まで歩くと五分くらいかかるし、車のほうが楽よ。おじさんの家で食事を済ませたら、そのまま宿に行けるし」「いいぞ、全部お前に任せる!」美月は彼を横目で見た。何もかも「お前の言う通りでいい」と言わんばかりの態度に、美月の心は複雑になった。――演技……?彼ほどの男が、わざわざこんな演技をする必要なんてあるのだろうか。まさか……彼は自分
第159話 俺こそが彼女の夫だ!美月はその言葉に、思わず蓮のほうを振り向いた。冗談を言っている様子ではない。美月は首を振った。「いいえ。夜は町の宿に泊まるわ」蓮が戸惑ったような顔をしているのを見て、美月はさらに説明を加えた。「掃除してもらってるのは一階と庭だけで、二階には……掃除の人も入れてないの。とても住める状態じゃないから、町の宿に泊まるの」「宿は設備が少し劣るけど、我慢してね」「もちろん、どうしても無理なら、午後のうちに帰ることもできるわ。その場合は、運転手さんに少し頑張ってもらうことになるけど」長距離の運転は疲れるが、幸い、どの車にも交代で運転できる者が乗っている。「宿に泊まるよ! 明日出発だ!」蓮がそう言うと、美月は頷いた。「分かったわ。じゃあ、あなたの言う通りにする」その言葉を聞いた蓮は嬉しそうに口元を緩めた。「それじゃ、今からどこへ行く?」「まず宿に行って……」美月が言い終える前に、聞き慣れた大きな声が響いた。「美月、帰ってきたのか?」美月が答える間もなく、その人物はすでに中へ入ってきていた。「おじさん」その呼び方で、蓮はこの人物が、例の叔父さんなのだと分かった。彼もすぐに声をかけた。
第158話 着いた夕食を終えると、蓮と美月は本家に長居しなかった。雅が、二人は明日出かけるのだからと気を利かせ、早めに帰らせたのだ。「美月ちゃん、戻ってきたら……来週の金曜日、一緒に宴会に出席しましょう」その言葉に蓮が反応した。「金曜日? 白井家の当主の誕生日祝いか?」「そうよ。あんたも出るの?」もともと蓮は、こういう場にはあまり出ない主義だった。だが、雅が美月を連れて行くというのなら、自分だけ行かないわけにはいかない。「ああ、俺も一緒に行く」雅は息子を一瞥した。やっぱりな、と言わんばかりに。だが、その目は明らかに嫌そうだった。「一人で動けないの?わざわざ私たちについてくる必要ある?」「……」蓮は言葉を失った。「家族は一緒に行動するのが一番だろ。俺だけ別行動したら、どう見える? どうしても嫌なら、それでもいい。俺は美月と、お前は父と行けばいい」――俺の嫁には、近づくな。雅は相手をするのも面倒で、聞こえないふりをした。「それなら、早く帰って休みなさい。気をつけてね!」美月は頷き、蓮と一緒にその場を後にした。車が神崎家を出てしばらくすると、彼女はようやく口を開いた。「白井家の当主って、あの白井靖の実家のこと?」
第157話 ちょっと褒められたら調子に乗りそう美月は頷いた。「ええ。今年は忙しくて行けなかったんです。この二日間、時間ができたので、行ってきます!」「それなら、行ってあげなさい。ちょうど蓮と結婚したばかりなんだし、お父さんにも顔を見せて安心してもらいなさい」美月は照れくさそうに笑った……今の気持ちを隠すために。実のところ、少し言葉に詰まっていた。自分と蓮の関係は……とても一言では言い表せないものになっている。もはや、単なる契約結婚とは言えない。入籍しただけでなく、何より……二人は本当の夫婦になってしまったのだから。ここ数日の蓮の様子を見ていれば……どれだけ鈍くても、蓮が自分に何か仕掛けているのではないかと気づく。彼は、単なる契約相手なんかじゃない。もしかすると……自分に少し好意を持っているのかもしれない。この結婚は、もはや最初に交わした契約だけでは収まらないものになっていた。この瞬間、彼女は蓮がここにいてくれたらと思った。「あなたの郷里は、きれいなところだと聞いたわ。いつか機会があったら、ぜひ行ってみたい」郷里の話になると、美月の表情がいくらか柔らかくなった。「ええ、きれいなところよ。空気もすごく澄んでいるし」雅はその表情を見て、胸が痛んだ。どうやら、お嫁ちゃんは郷里に深い思い入れがある……いや、実のお父さんへの想いが強いのだろう。
第156話 おばあさまの褒め殺しに、蓮もタジタジ蓮は、美月が顔を赤らめる姿が大好きだった。その姿を見るだけで、心を奪われてしまう。彼女の頬を両手で包み、そのままずっとキスしていたいくらいだ。特に、彼女が拗ねたような顔を見せると、まるで電流が走ったように頭がくらくらする。蓮は深く息を吸い込み、気持ちを落ち着かせた。自制心なんて、彼女の前では微塵も役に立たない。このままお互いに煽り合っていたら……最後に恥ずかしい思いをするのは、決まって自分だ。これ以上、危ない話題を続けるのはやめておこう。蓮は慌てて尋ねた。「一度家に寄ってから行くか? それとも、このまま直接行くか?」その一言で、車内に漂っていた甘い空気が一気に消えた。蓮がいつもの調子に戻ったのを見て、美月の頬の熱も少しずつ引いていった。「一度家に帰るわ。着替えたいから」「いいぞ!」実のところ、蓮はあまり行きたくなかった。遅くなったら……雅が、俺に料理を作らせようと待ち構えているんじゃないか?そのまま二人は家へ向かった。「まだ時間はあるから、そんなに急がなくていいぞ。熱い風呂に入る時間だってある」美月は蓮の言葉を無視して、そのまま二階へ上がっていった。ただ、風呂にはちゃんと入った。もともと入浴は早く、さっと体を流す程度で済ませるタイプだ。
第155話 転がり込んできた儲けは断らない「すみません、契約書を作り直していただけますか?一年以内に返済する、という一文を追加してほしいんです」「……?」賀来は絶句した。せっかく贈られたものを受け取らず、わざわざ金まで払うのか?賀来は少し戸惑った。夫婦なのだから、そこまできっちりしなくてもいいだろう。それとも……今どきの金持ちは、みんなこんなやり方をするのか?思わず恒に視線を向けると、彼が小さく頷いた。それを見て、賀来は口を開いた。「承知しました。具体的なご要望をもう一度お聞かせいただけますか?」美月は自分の考えを改めて説明した。賀来弁護士は納得したように頷いた。その時、恒が口を開いた。「こちらは金銭消費貸借契約書として別途作成すれば、ビル購入に関するこちらの契約書には影響しません。先にこちらへご署名ください。残りの手続きは私と賀来先生で処理いたします」「それならいいわ」手間が省けるのなら、美月に断る理由はなかった。彼女は差し出された書類と契約書に署名した。恒は署名済みの書類を受け取った。「それでは失礼いたします」美月は何かを思い出した。「恒、ちょっと待って。一つ聞きたいんだけど、今の賃貸契約が満了したら、私が新しく契約を結び直すことになるの?」恒は頷いた。「はい。所有権移転の手続きが